中学三年生の春、私は人生で初めて恋をした。
相手は同じクラスの花崎稔くん。背が高くて、いつもにこにこしていて、誰に対しても優しい人だった。体育祭では応援団長をやっていたし、文化祭では実行委員として活躍していた。クラスの中心にいるような、まばゆい存在。
私なんかとは正反対の人だった。
「おはよう、神林さん」
ある朝、教室に入ったところでちょうど稔くんと鉢合わせ、稔くんが私に声をかけてくれた。その瞬間、心臓が止まりそうになった。これまで話なんてしたこともなくて、挨拶でさえろくに交わしたことがなかったから。
「お、おはようございます」
私は慌てて返事をしたけれど、きっと顔は真っ赤になっていたと思う。稔くんは困ったような笑顔を浮かべて、すぐに他の友だちのところへ行ってしまった。
それから私は、稔くんのことばかり考えるようになった。
朝起きると、今日は稔くんと話せるかな、なんて思うようになった。学校に行く前は、鏡を見ながら少しでも可愛く見えるように髪を整えた。でも結局、鏡に映った自分の顔を見て、やっぱり無理だと思って絶望した。
こんな私が稔くんに話しかけたら……きっと迷惑に思われてしまう。
授業中も、稔くんの後ろ姿をじっと見つめていた。時々、振り返って笑顔を見せてくれることがあったけれど、それは私に向けられたものじゃなくて、私の後ろの席の友だちに向けられたものだった。当然のことなのに、そのたびに胸が痛んだ。
放課後、図書室で一人で本を読んでいると、稔くんがやってきた。
「神林さん、いつもここにいるよね」
「あ、はい。静かで……好きなので」
「俺も本好きなんだ。今度、おすすめの本教えてよ」
稔くんはそう言って、私の隣の席に座った。こんなに近くに稔くんがいるなんて夢みたいだった。それと同時に、自分の醜い顔を見られているという恐怖で体が震えた。緊張と嬉しさと怖さ……全部の感情で手に汗がにじむ。
それでも私は、稔くんと会話を続けようと声を振り絞って聞いてみた。
「ど、どんな本がお好きですか?」
「冒険小説とか、SF小説とか。神林さんは?」
「私は……恋愛小説を読むことが多いです」
「へえ、そうなんだ。今度読ませてもらおうかな」
稔くんはそう言って微笑んだ。その笑顔があまりにも優しくて、私は胸が苦しくなった。
この人が私のことを好きになってくれることなんて、絶対にない。 そんな当たり前のことを、改めて思い知らされた瞬間だった。それからしばらくして、稔くんに彼女ができた。
同じクラスの高橋栞菜ちゃん。長い黒髪にぱっちりとした目、すらりとした体型の美人だった。二人が廊下を歩いているのを見かけるたびに、私の心は針で刺されるように痛んだ。
「お似合いだよね、あの二人」
クラスメイトがそんなことを言っているのを聞いて、私は胸が張り裂けそうになった。確かにお似合いだった。稔くんと栞菜ちゃんは、まるで少女漫画から抜け出してきたような美しいカップルだった。
私は自分の醜さを呪った。
もしも私が栞菜ちゃんのように綺麗だったら、稔くんと付き合えたかもしれない。手を繋いで歩いたり、一緒にお弁当を食べたり、放課後に二人で帰ったりできたかもしれない。
でも現実は違った。
私は一人で図書室に通い続けた。稔くんはもう来なくなった。栞菜ちゃんと過ごす時間の方が楽しいに決まっている。
放課後、図書室の窓から、校門を出ていく人波を眺めていると、稔くんと栞菜ちゃんが笑い合いながら帰っていく姿が見えた。 胸がズキンと痛む。それでも……例え彼女がいても、私が稔くんを想う気持ちは変わらない。卒業式の日、私は稔くんに告白しようと思った。
栞菜ちゃんがいるのだから、どうせ振られるのはわかっていたけれど、この想いを胸に秘めたまま卒業するのは嫌だった。せめて、自分の気持ちだけでも伝えたかった。
なのに結局、私はなにも言えなかった。
稔くんの前に立った瞬間、自分の醜い顔を見られているという恥ずかしさと、絶対に振られるという恐怖で、足がすくんでしまった。
「神林さん、なにか用?」
稔くんは優しく声をかけてくれた。でも私は……。
「いえ、なんでもありません」
そう言って逃げるようにその場を去ってしまった。
後悔は今でも残っている。あのとき、勇気を出して告白していれば、少なくとも自分の気持ちを伝えることはできた。結果がどうであれ、振られてスッキリしたかもしれない。
私は、自分の醜さを理由に、大切な想いを伝えることすらできなかった。勇気がなくて、逃げてしまった。
高校に入学して、環境が変わっても、当然、私の容姿は変わらなかった。相変わらず鏡を見るのが辛いし、人の視線を感じるのが怖い。
笑われているんじゃないか、嫌がられているんじゃないか。そう思うと誰かに声をかけることもためらってしまい、私はいつも一人で過ごしている。ただ、高校生になって、一つだけ変わったことがあった。
父が私にスマートフォンを買ってくれたのだ。「高校生になったんだから、連絡手段は必要だろう」
父はそう言って、真新しいスマホを私に手渡してくれた。私は生まれて初めて、自分専用の携帯電話を持った。
最初は電話とメールしか使えなかったけれど、だんだんいろいろな機能があることを知った。インターネットで調べ物ができるし、アプリもたくさんある。
そしてなにより、SNSというものの存在を知った。
顔を知らない人たちと、文字だけでやり取りができる。アニメや漫画の話で盛り上がることができる。自分の顔を見られることなく、好きなことについて語り合える。
これは私にとって、新しい世界の扉だった。
もしかしたら、この世界でなら、私も誰かと普通に話せるかもしれない。容姿を気にすることなく、本当の自分を出せるかも知れない。
誰かと親しくなって、友だちが出来るかも知れない。そんな淡い期待を胸に、私はスマホの画面を見つめた。
稔くんへの想いは、まだ心の奥にしまったままだった。でも今度は、この新しい世界で、なにか素敵な出会いがあるかもしれない。
そんな希望を抱きながら、私は新しい高校生活をスタートさせた。
大学三年の秋――。 私は文学サークルで親しくなった安部真理子と一緒に、学食で遅めのお昼をとっていた。「ねえ、紀子。今度の日曜日、時間ある?」「日曜日? 特に予定はないけど」「じゃあさ、H大の学園祭に付き合ってくれない?」「学園祭? なにかあるの?」 私がそう聞くと、真理子はパッと顔を赤くした。あまりにも突然で私は目を見開いて真理子の顔を見つめた。「彼氏、できたって言ったでしょ? H大なの。遊びにおいでよって言われてて……」 照れた表情を見せる真理子は、とても美しく見え、私まで胸の奥が温かい気持ちになる。そういえば、一カ月ほど前に文学サークルで他の大学のサークルと飲み会をすると言っていた。 私は気後れしてしまって、飲み会や集まりにはほとんど参加しない。その時に、とても気が合う良い人がいると言っていたけれど、その後、付き合うことになったと聞いたっけ。「会いに行くなら、私が一緒じゃ邪魔になっちゃうんじゃない?」「そんなことないよ! ホラ、彼も出し物の屋台? 忙しいだろうから」 きっとほとんど一人になってしまうと言って、真理子は私の手を握り、懇願してくる。人混みは、今でもどうしても避けたい気持ちが溢れてくるけれど、こんなに頼まれて無下にはできない。 真理子はいつでも私に気遣ってくれる、数少ない大切な友だちだから。「わかった。それじゃあ、彼氏さんの時間が空くまで付き合うよ」「ありがとう~! じゃあ、日曜日の十一時に、H大の最寄り駅で待ち合わせでいい?」「いいよ」 こうして、私はH大まで出かけることになった。 ――日曜日。 H大の構内は様々な屋台や出し物で溢れかえり、人も多く、とても賑わいでいた。私たちの通うG大も学園祭になると人が増えるけれど、H大の方が明るくて派手に感じてしまう。 慣れない他校の雰囲気に、私は少し飲まれ気味になっていた。「あっ! 紀子、あそこ!」 真理子が指さしたのは、立ち並ぶ屋台の
春が来た。 私の人生に、新しい季節が訪れようとしている。 合格通知書を手にしたとき、私は一人で静かに涙を流した。憧れの大学の文学部。新しい環境で、新しい自分になれるかもしれない。「おめでとう、紀子」 母が嬉しそうに私を抱きしめてくれた。父も、珍しく満面の笑みを浮かべている。「ありがとう」 素直に喜びを表現できるようになった自分に、少し驚いた。あのころの私なら、どんなに嬉しいことがあっても、心の底から喜ぶことができなかっただろう。 自分の容姿を気にして、先へと続く時間も、これまでと同じに流れるとしか思えないままでいただろう。 ――卒業式の日。 桜の花びらが舞い散る中、私は高校生活に別れを告げた。この三年間、特に最後の一年は、私にとって大きな転換期だったと思う。 彩音とは、結局最後まで和解することはなかった。クラスが別になって、接点がなくなったのも理由の一つかもしれない。それでも、彼女への恨みは不思議と薄れていた。もしかしたら、彼女も彼女なりの事情があったんだろう。そんな風に思えるようになった。 クラスメイトたちとの別れ際、何人かが私に声をかけてくれた。「紀子、大学でも頑張ってね」「元気でね。素敵な小説を書いてね」「今度、連絡するから」 社交辞令かもしれないけれど、そんな言葉をかけてもらえることが嬉しかった。入学したころは、こんな風に卒業式を迎えられるなんて、考えもしなかった。中学のころのように、一人ぼっちで誰とも話すことなく、校門をくぐるだろうと思っていた。 一人になった教室で、私は窓の外を眺めた。 拓翔も、どこかで卒業式を迎えているのだろうか。新しい道へ向かって歩み始めているのだろうか。友だちや、もしかすると、新しい出会いがあって、素敵な人と卒業のお祝いをしているかもしれない。「拓翔、卒業おめでとう」 同じ空の下、どこかで今日を迎えている拓翔に、届かないとわかっていても伝えたかった。*** 大学生活が始まった
新緑の葉が赤や黄色に色を変え、高く広がる空が心地よい季節になった。 私もついに進路を決めて、受験に向けて本格的に準備を進めている。教室の黒板には「進路希望調査」の文字が踊り、周りのクラスメイトたちは将来の話で盛り上がっている。この数カ月で、私の周りの環境も少しずつ変わっていた。彩音とは別のクラスになって顔を合わせることもほとんどなくなった。今のクラスメイトたちは、そこまで深く付き合っていなくても、私と普通に接してくれる。 以前のように、私を嫌な目で見る人もいるけれど、嫌がらせをする人はいない。 お昼ももう、一人で食べることはなくなった。一緒に食べる仲間ができたから。毎朝、学校へ来ることが憂鬱でたまらないことは、もうなくなった。「紀子は大学行くの?」 隣の席の女子が気さくに声をかけてくれる。「うん、文学部に進みたいと思ってるんだ」「へえ、美術部だから、てっきり美大に行くんだと思った。もしかして小説とか書くの?」「まあ、そんなところかな」「いいじゃん、夢があるよね。でも、絵を描くのはやめちゃうの? 上手いのにもったいなくない?」「ありがとう……絵は続けるよ。せっかく美術部で色々と教わったから」 あのころから物語を書くことに興味を持つようになっていた。自分の気持ちを言葉にすることで、少しずつ心の整理ができるようになった気がする。 絵を描くことも、もちろん続けていきたい。自己流だけれど、時間を見つけて描くようにしている。拓翔が上手いと褒めてくれたから。 放課後の図書館で、私は大学の資料を眺めていた。志望校のパンフレットを開きながら、今日もまた、拓翔は今どうしているのだろうと考えてしまう。 彼も高校三年生になったはずだ。進路は決まったのだろうか。拓翔は小説家になりたいと言っていた。私と同じように、どこかの大学の文学部に進むんだろうか。 そして、あの優しくて温かい口調で、進路について、誰かと話しているのだろうか。 もしかすると、同じ大学を希望しているかもしれない。「……だめね、私」 思わず呟いてしまう。こんな風に、拓翔のことを考えない日はない。あの日、私は自分から関係を断ち切ったのに、心の奥底では、今でも彼への想いを手放すことができずにいた。 夜、自分の部屋でスマホを見つめる。 あの日以来、私はSNSやチャット、掲示板からは完全に距
桜が散り始めた四月の午後、私は一人で図書室にいた。 進路相談の資料を広げながら、将来のことを考えている。三年生になって、現実的に自分の進路を決めなければならない時期が来た。 以前なら、こんなときも拓翔に相談していただろう。拓翔は私の話をいつも真剣に聞いてくれて、的確なアドバイスをくれた。でも、もうそれは叶わない。「神林さん、一人?」 振り返ると、同じクラスの梶原哲哉が立っていた。彼は図書委員で、私とは時々、本の話をする仲だった。「うん、進路のことを調べてるの」「俺も。一緒に考えない?」 哲哉は、私の向かいに座った。彼は背が高くて、優しい顔をしている。クラスでも人気があって、私なんかとは住む世界が違う人だと思っていた。どちらかというと、彩音のグループにいるような人だから。「神林さんは、文学部志望だっけ?」「うん。でも、まだ迷ってる」「なにを迷ってるの?」 私は少し考えてから答えた。「本当に、私なんかが文学を学んでいいのかなって」 哲哉はジッと私を見つめて首をかしげた。「どうして? 神林さんの読書感想文、いつもすごく深くて感動するよ。先生も褒めてたし」 その言葉に、私は驚いた。誰かが私の感想文を読んでくれていたなんて知らなかった。「ありがとう。でも、私は人とのコミュニケーションが苦手だから、将来文学の道に進んでも、うまくやっていけるか心配で」「それなら、今から少しずつ慣れていけばいいんじゃない? 僕、神林さんと話してると楽しいよ。落ち着いてるし、考えが深いし」 哲哉の言葉は、拓翔が言ってくれた言葉と似ていた。以前は受け入れられなかったお世辞も、今度は素直に受け取ることができた。「そう言ってもらえると、少し自信が持てる」「神林さんは、もっと自分を信じていいと思う」 その後、私たちは進路について色々と話し合った。哲哉は理系志望で、将来は研究者になりたいと言っていた。真剣に夢を語る彼の姿を見ていると、拓翔と重なる。私も
僕は、もう一週間も眠れない夜を過ごしていた。 スマホの画面を何度も確認するけれど、紀子からの返信は来ない。当然だった。彼女は最後のメッセージで、もう連絡しないでと言ったのだから。 それでも僕は、諦めることができなかった。 あの日、紀子の写真を見たときの気持ちを思い出す。確かに驚いた。でも、それは彼女が思っているような嫌悪感ではなかった。むしろ、ほっとしたのだ。 紀子は、ずっと自分のことを醜いと言い続けてきた。だから僕は、相当な容姿の人を想像していた。でも実際の写真は、ごく普通の、むしろ優しそうな表情をした女の子だった。「なんだ、全然大丈夫じゃないか」 それが、僕の率直な感想だった。 自分だって、身長が低いことで散々からかわれてきた。人の容姿をどうこう言えるような立場ではない。それに、紀子の魅力は見た目ではなく、その優しい心や、物事を深く考える知性、そして純粋さにあった。 写真を見たあとも、彼女への愛情は微塵も揺らがなかった。むしろ、やっと実際の彼女を知ることができて、嬉しかったのだ。 でも、紀子には信じてもらえなかった。『もう連絡しないでください』 あの言葉が、何度も頭の中で響く。紀子の気持ちもわかる。容姿にコンプレックスを持つ彼女にとって、写真を見られることは、心の奥の傷をえぐられるような体験だったのだろう。 でも、だからといって諦めるわけにはいかない。彼女が誤解したまま関係を終わらせてしまうなんて、あまりにも悲しすぎる。 僕は、パソコンの前に座り、新しいアカウントを作成した。名前も、アイコンも、すべて変えて。そして、紀子が使っていた掲示板にアクセスする。 紀子がもう戻ってこないことはわかっている。でも、もしかしたら、気が変わって覗きに来るかもしれない。そのときのために、メッセージを残しておこう。 本名を晒すわけにはいかないから、ハンドルネームで。『NORIへ。君がこれを見てくれるかはわからないけれど、どうしても伝えたいことがある。僕の気持ちは、君が思っているようなものじゃない。君は美しい人だ。外見的な美しさ
机の引き出しに、使わなくなったスマホが眠っている。 あれから一週間。 私は機種変更として、新しいスマホを買ってもらったけれど、SNSのアプリは一切入れていない。ネットの世界には、もう戻らないと決めたのだ。 朝、目が覚めると、真っ先にスマホを手に取る習慣が抜けない。拓翔からメッセージが来ていないか確認しようとして、ハッと我に返る。もう、拓翔からのメッセージが来ることはないのだ。 学校に行く準備をしながら、鏡の前に立つ。相変わらず、そこには醜い自分が映っている。でも、なぜか少し違って見える。拓翔が「優しそうな表情をした女の子」だと言ってくれた顔。本当にそう見えるのだろうか。 そんなことを考えている自分に気づいて、慌てて頭を振る。もう、彼の言葉にすがるのはやめよう。「紀子ー、朝ごはんよー」 母の声に返事をして、階下に向かう。食卓に着くと、母が心配そうに私を見つめていた。「最近、元気がないみたいだけど、大丈夫?」「大丈夫だよ」 嘘だった。全然大丈夫じゃない。胸に空いた穴は、日に日に大きくなっているような気がする。「友だちと、なにかあった? 最近、スマホもあまり見てないみたいだし」 母の優しい問いかけに、思わず涙が出そうになる。でも、説明することはできない。ネットで出会った人との恋愛なんて、理解してもらえるはずがない。「ちょっと疲れてるだけ。心配しないで」 母は納得していない様子だったけれど、それ以上は聞いてこなかった。 学校に着くと、彩音が意地悪な笑みを浮かべて近づいてきた。「あら、神林さん。ネットの彼氏とはうまくいってる?」 その言葉に、クラスメイトたちがこちらを見る。あの日から、私はクラス中の好奇の対象になってしまった。「もう、そんな人はいません」 私の答えに、彩音は満足そうに微笑んだ。「そうよね。所詮、ネットの関係なんて虚しいものよ。現実を知れば、みんな逃げていくのよ。傷が浅いうちで良かったんじゃない?」 胸に刺さる言葉。でも、違う。